弱虫ペダルが好きすぎて

祝!連載10周年!!アニメ4期は2日目の山へ!週チャン連載はいよいよラストゴールへ!ゆるペダルナイトで『総北信号機トリオの手繋ぎゴール』を先生にお願いしたかったのに忘れて大後悔中。弱虫ペダルの好きな場面と時々声優関智一さんの舞台話など。

神楽坂怪奇譚 -棲- エネルギーを込める、熱量を発する

わたるん先生

昨日の「神楽坂怪奇譚 -棲-」というお芝居をみて。
自分の中でいろいろな思いや感情が揺さぶられ、掘り起こされて、なんだか落ち着きません。


自分が思ったこと、感じたをことばに表して人の目に触れうるところに置くこと

それは私にとって怖くてなかなかできないことでした。

人に「それは違うよ」と言われたくない
攻撃されたくない

ある時期「答え合わせをしているね」とよく人に指摘を受け、そのたびそんなことはないと反発を感じていたのですが、人から受け入れられたい、同意を得たい、そうだね間違ってないと言って欲しい、そんな心理があるのにそこから顔を背け、ないことにしていたのを見透かされて居心地が悪かったのでしょう。
その頃は言いかけたことをグッと飲み込むことも多かったし、自分が思ったことをことばに表して、人の目に触れうるところに置くことなんてできませんでした。
ブログを書いたりしてはいたけど、嘘っぽいこと書いてるなと自分で嫌気がさし、いつの間にか間があきやめてしまう、を繰り返していました。

とんだ自意識過剰なのだけど、それくらい自分のことしか見えてなかったんだなぁと思います。

弱虫ペダルにハマってからのあるとき、弱虫ペダルの古いグッズのことを検索して偶然見つけたある方のブログを読んでいて、自分の好きなものを好きだと言える姿、すごく素敵だ、と心が熱くなりました。
もし誰かに何か言われたとしても、好きなものについて熱く語ることに後ろめたさや遠慮はいらないのだ、と教えてもらった気がしました。

それから始めてみたこのブログ。はじめの頃はアニメやマンガについて飽きもせず、好きだの何だのとをいい歳して、という気恥ずかしさがないわけではなかったのですが、だんだんと楽しさやテンションの高さの方が勝るようになり、バカだなこの人と思われたとしてもまあいいや、と掛け値なしで思えるようになりました。
この自分のブログをもし友人知人が見たとしても、今なら恥ずかしいとか隠しておきたいとか思うことはなく、むしろ弱虫ペダル関智一という役者さんの宣伝機会到来、ラッキー!と喜ぶ自信があります。


怪奇譚からなんでこんなことが掘り起こされてきたんだろう?

この落ち着かなさが自分でも不思議だったんですが、たぶん舞台上で役者さんが全てを使って表現している姿を間近で見て、そのエネルギーを浴びたからと解釈しています。
受け取った、レベルじゃなくて「浴びた」感じ。頭からかぶった、と言ってもいい。

役者は自分の経験がすべて生かせる
どんな経験もいつか役立つ(ときがあるかもしれない)から、引き出しにしまっておくんだ


というアドバイス的な言葉をしばしば耳にします。

このあいだの舞台でも、物書きである泉鏡花の中に役者という表現を生業にしている関さん自身の表現者の魂を垣間見た気がしました。

役に向き合う熱量、生のエネルギーを感じたのです。
弱虫ペダルを読んでいても感じることなのですが、圧倒的な熱量。

自分がやってこなかった、手を抜いてきた、そんなふうにどこかで後悔の念があるからよけいにそう感じるのかもしれません。ひたむきさとか、がむしゃらとか、そういうの。エネルギーがもったいないだの、かっこ悪いだのとなんだかんだ言い訳を並べて、やれることをやり切らなかったという後悔、ずっとのちのちまで尾をひく後味の悪さ。

だからめいっぱいエネルギーを注いで対象に向き合う人を見ると、眩しく、羨ましく、憧れたのだろうと思います。


好きなものを好きだ、と恥じることなく大声で言えるようになった

それが小さな一歩になって

自分の思ったこと、感じたことを口に出せるようになった、人の目に触れるところに出せるようになった

進歩でも成長でもなくてもかまわない、ただ確かに変わってきてるなと確信がある。
それを何かの形で残しておくことが必要だ、よくわからないけどそんな強い衝動が現れました。

すごい独り言でもかまわない、それをこうやって残しておけ、人目に触れるところに置いておけと何かが耳元でずっと囁いているようなのです。
やっぱり「なにか」「それ」を連れて帰ってきてしまったのかもしれません。
「それ」が自分にも棲みついてしまったのかもしれないけど、しばらくつきあってみよう。そんな気分です。